twitterで東京新聞の社説の話が、”つぶやかれ”結果、かなりに方が読まれたのではないかと思う。タイトルは「権力監視と未来の提言」というもの。
そこにはこう書かれている。
「メディアにとってことし最大の事件は、民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる検察捜査とこれを報道した新聞やテレビへの世論の激しい反発と批判でした。」
ところが、テレビや新聞は、表面上は「そんな事は、知ったこちゃない」という記事を書き続け報道をし続けている。お馬鹿な議員は、小沢氏の「説明責任」をたてに辞任をせまり、また「民意だ民意だ」と騒ぐコメンテーターは、未だに小沢氏への攻撃を止める様子もない。
中には、「マスコミが民主党にすり寄ってきたように思う」という意見も無いわけではないのだが。
ところが、大手メディアに求められているのは、自浄作用なのであって変節でなければ変化でもない。公正・公平な立場での取材なのである。
「アメをくれる人間の悪口は書きづらい」だけの話であって、アメをくれる人間の話を1つ聞いたらその対岸にいる人間の話を5回聞いても足りないくらいである。でなければバランスが取れない事くらい、わからん記者たちでもあるまいに。
「検察捜査とこれを報道した新聞やテレビへの世論の激しい反発と批判」は確かにあるだろうが、「リークは無い」とTVや新聞そして各コラムで書き報道をしてきた大手マスコミの論説委員や重鎮の罪は決して軽くはない。
新聞社を退社した記者や現役でも一部の”心ある記者”、そしてフリーの記者達が「リークはある」と言っても否定をし無視をしてきた大手マスコミである。その間にどれくらい歪められた報道・記事が流された事か考えた事があるのだろうか。
「小沢幹事長の事件でのメディア批判」は、小沢政権を潰したと同時に大手マスコミの不公平・不公正な立場で記事を書きそして流してきた事を明らかにしたという事でもある。
当然、小沢支持者からは、「大手マスコミは潰れてしまえ!」という声が上がるのも当然であるが、同時に余りにも偏向報道が続いた事に今まで政治に興味の無かった人間の「マスコミ不信」という扉さえも開けてしまったのであろう。
逆の見方をすると、「大手マスコミは、偏向報道を続けたらいいさ」というレベルでしか相手にはされなくなったのである。昨年の3月から続いた小沢氏へのバッシングで大手マスコミは、検察の走狗となり検察に有利な記事を書き続けたという事実は、過去の記事を読みなおすと一目瞭然である。
確かに小沢氏が政界での実力者である事に異論はない。しかし、政権を奪取しようとしているその時に果たしてあの西松事件が適切・適法なものであったのだろうか。その部分に大手メディアは明確に総括をまだしていない・恐らく、「未だ公判中」だからと言い出すものだと推察をされる。
東京新聞では
>憲法は新聞などの報道機関を特別な存在と認めてきました。権力者が恣意(しい)的な権力行使をしないように監視・抑制したり国民の知る権利に奉仕することを報道の重要な役割と認定し、国家公務員の守秘義務と戦い、秘密を明かすよう説得することを違法とはしませんでした。公務員への根気強く執拗(しつよう)な取材も、新聞記者が取材源秘匿のために法廷で証言拒否することも正当とするなどの判例も積み重ねられました。
取材源秘匿という言葉が、「虚偽報道の秘匿」と同一レベルで見られていることさえ大手メディアは気がついていないようである。これは何をさすか、考えたらわかるはず。呑んでの与太話や井戸端会議レベルと違い、逮捕や起訴ということが起き、ターゲットとされた人間・企業は表舞台から自殺をする人間まで存在し、企業に至っては倒産という憂き目にあい従業員・家族は路頭に迷うことさえある。
今までの冤罪の片棒を担いできたのは誰あろう、大手メディアではないのか。それこそ「盗人猛々しい」話でではないのか。それこそ、監視をしなければならない権力であるはずの検察とスクラムを組んだ時点でマスメディアの存在を自ら否定をしたのに等しい。
なぜなら、「捜査をするかしないかは、世論の動向次第」と言い張り、恣意的捜査が可能な検察権力と組んだのであれば、「捜査をすべし」の世論を作る事で誰に対しても捜査ができると言うことになる。それこそ「そんな、馬鹿な話はあるか!」としかいいようがない。
昨年末から騒いだ陸山会のゼネコンからの裏献金話や水谷建設元会長が供述した産経が記事にした一億円のヤミ献金の話は、何処へ行ったのか。産経は、それこそ説明責任を果たすべきである。それができないのであれば、産経という存在そのもが「害」以外の何ものでもない。
東京新聞社説
週のはじめに考える 権力監視と未来の提言
2010年4月4日
歴史と時代の転換期。厳しいメディア批判ですが、それでも権力の監視と未来への提言がわたしたちの任務-が六日からの新聞週間を迎えての感慨です。
メディアにとってことし最大の事件は、民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる検察捜査とこれを報道した新聞やテレビへの世論の激しい反発と批判でした。
これまでの検察への批判といえば、「眠れる検察」や「悪い奴(やつ)ほどよく眠らせる」拱手傍観(きょうしゅぼうかん)への冷笑や落胆で、政権与党最大の実力者の疑惑追及に拍手でなく反発が起こったのは前代未聞でした。
◆検察もメディアも同罪
国民が自らの手で誕生させた新政権への思い入れは深く、検察捜査に官の組織的抵抗や民主党潰(つぶ)しの疑惑を抱いたからでしょう。マスコミも一蓮托生(いちれんたくしょう)とみなされたようでした。
憲法は新聞などの報道機関を特別な存在と認めてきました。権力者が恣意(しい)的な権力行使をしないように監視・抑制したり国民の知る権利に奉仕することを報道の重要な役割と認定し、国家公務員の守秘義務と戦い、秘密を明かすよう説得することを違法とはしませんでした。公務員への根気強く執拗(しつよう)な取材も、新聞記者が取材源秘匿のために法廷で証言拒否することも正当とするなどの判例も積み重ねられました。
小沢幹事長の事件でのメディア批判は、憲法が報道機関に期待する権力監視の重大な役割を検察に対しても果たしているかの問いかけであり、不信でもありました。
民主主義国家での検察は、国民から負託された権力の行使には、適法で公正かつ公平でなければならないのは当然ですが、ことに特捜部捜査では公正さや公平さを疑われてすらならないとされます。
◆情報操作の危険の自覚
国民から期待されてきたのは「巨悪の剔抉(てっけつ)」で、そのためには絶対的正義でなければならず、政治権力と切り結ぶには世論の支持が不可欠でもあるからです。
この点で今回の小沢事件は、強制捜査のタイミングや政治資金規正法違反での現職国会議員の身柄拘束などで釈然としないものを残したことを否定できません。
確かに政治資金規正法は罰則が禁固五年以下で、形式的とも軽微な法律ともいえません。しかし、核心の陸山会の四億円の土地購入資金が小沢幹事長の記者会見での説明通りの家族名義の私的資金だったとしたら、現職衆院議員を逮捕して罰するほどの悪質性があるかどうかは疑問です。
購入資金のなかにゼネコンからの裏献金や水谷建設役員が供述したとされる一億円のヤミ献金が混じっていてこそ特捜部捜査の公正、公平の大義が保てるというものです。メディアに公判を検証する義務が残りました。
検察からの情報入手が至難なのは今も昔も変わらないようです。早朝から深夜、未明までの熱心で執拗な取材も報われることは少ないようです。それゆえに検察と一体とならないと情報が取れなかったり、当局の情報操作に乗ってしまう危険をはらみます。
もともと警察や検察の事件報道は当局の捜査情報に多くを依存しますから当局が描く事件の構図や筋書きに影響される宿命を免れません。「新聞は当局の情報操作に手を貸している」との批判を必ずしも一蹴(いっしゅう)できない理由です。
権力との関係で新聞の敗北の歴史は少なくありません。情報操作の危険性を自覚しつつ、取材力を磨き、見識を高めていくしかありません。それが汲(く)むべき教訓でしょう。わたしたちは何より読者に情報の「真実」を伝えなければならないからです。
未来への提言も難しいテーマです。日本の誇りだった各経済指標も落ち込んで、一九八〇年代には世界のトップだった一人当たりの国民所得は現在十九位、四十二年保った世界第二の経済大国もことし中には中国に譲り渡します。
一億総中流社会も一時、低賃金と不安定雇用の格差社会に変わり難問解決の妙手の成長戦略を描ききれないでいます。
◆経済で国は滅びない
しかし、経済の衰退で国は滅びません。困難に直面して国民が挑戦する気概を失ったとき国は滅びるのだといわれます。少子高齢化やグローバル経済、脱化石燃料の未知なる世界へ果敢に挑戦して「日本型モデル」を築き上げなければなりません。国を滅ぼしてはならないからです。
子ども手当や高校授業の無料化も未来に向けた試行錯誤と受け取れます。支え合い社会のための医療や年金や介護の充実も、そのための応分の負担も必要でしょう。昨年の総選挙は国民を統治の主体者に変えました。国づくりは等身大の提案から始まります。
気になったのは、筆洗である。砂川事件を再度考え直す絶好のタイミングであり、米軍がなぜ日本に基地を持っているのかも問うているのである。
丁度、今各メディアは、普天間移転を鳩山内閣の迷走だとして叩きまくっている。しかし、砂川事件に米国側が干渉をしていなかったら、今どのような展開になっていたであろうか。
【裁判要旨】
一審では
「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」
これに対して、米国側からの圧力は無かった(会談もした記録がない)としながら、検察側は最高裁判所へ跳躍上告し結果有罪としてしまった事件である。
最高裁では
憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、
何ら禁ずるものではないのである。
条約について裁判所が違憲審査権を行使する場合は、一見極めて明白に違憲無効であると認められないか否かに限って審査すべきである。
アメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。
<米軍の駐留は憲法九条に違反する>。半世紀前、歴史に残る判断が示された。憲法の教科書で必ず紹介される「伊達判決」である
▼東京都北多摩郡砂川町(現立川市)の米軍の飛行場に不法侵入したとして、旧日米安保条約に基づく刑事特別法違反罪で起訴された被告に、東京地裁の故伊達秋雄裁判長は一九五九年三月三十日、無罪を言い渡した
▼墨筆で書いた辞表を懐に判決に臨んだ裁判長の覚悟に慌てたのは、当時のマッカーサー駐日大使だった。判決翌日、藤山愛一郎外相と会談、東京高裁を飛び越えて最高裁への上告を促した。田中耕太郎最高裁長官とも密談している
▼裁判は大使の思惑通りに進んだ。検察は最高裁に跳躍上告。最高裁は地裁に審理を差し戻し後に有罪判決が確定する。露骨な内政干渉の事実が明らかになったのは二年前、米公文書が機密指定を解除されたためだ
▼外務省は元被告の情報公開請求に「記録がない」としてきた姿勢を最近やっと見直した。大使と外相が会談した事実を認め、速記録を元被告に開示したのだ。政権交代の大きな果実だ
▼飛行場は七七年に返還され、昭和記念公園になった。百八十ヘクタールの敷地には三十一種類千五百本の桜があり、ソメイヨシノが満開だったきのうは二万人が訪れた。沖縄の米普天間飛行場の跡地に季節の花が咲き、市民を楽しませてくれる日も必ず来る。
地検は米国からの意向を強く受けている。という話をよく聞く。つまり、米国にフリーハンドを与えておき、それに規制がかかると反対をする側を逮捕・起訴をし有罪にしてきたともとれるのである。
この、砂川事件に関して当時の新聞記事を読んだ記憶があるのだが、今の新聞記事よりは、ホネがあったように思えたのを覚えている。
1審の「伊達判決」に慌てた、当時のマッカーサー駐日米大使と藤山外相が会談を行い控訴を経ずに上告する「跳躍上告」を勧めていたことや、駐米大使と最高裁長官の田中耕太郎が密談していたという事実が、2008年4月にこれも米国公文書で明らかになったことから、、法務省・外務省・内閣府・最高裁の4機関に情報公開を求めていたものである。
これに対し、法務省・外務省・内閣府・最高裁の4機関の全てが「不存在」と回答をしていたのである。つまり、日本の三権全てが「嘘つき」だという事なのである。
しかし、昨年の8月に起きた政権交代で再度、開示請求をしたところ、法務省・内閣府・最高裁の3機関は不開示であったが、外務省は今年の3月に開示を決めたというもの。
砂川事件は、「本当は、無罪」だったされた場合には、かなり難しいとは思うが、国内の米軍基地の存在が違憲であるとされる可能性さえあることとなる。
検察権力が、一つは総理候補を潰し、もう一方では国内の米軍基地の存続を許してきたのであれば、それこそ「歴代の検察トップが切腹をしても」追いつかない程の舵取りをしてきたということである。それを承知で検察にマスコミが追随をして来たのならやはり「同罪」とも言える。
1959年3月30日の砂川事件報道(毎日)
http://showa.mainichi.jp/news/1959/03/post-6e49.html

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まったく、くだらない話